AAMTジャーナル「機械翻訳」No. 83 ことばの自由さ

筆者はこの2年ほどの間に専門である自動同時音声翻訳や機械翻訳に関する講演をする機会を幾度かいただいた。一般向けあるいは専門家向けに、機械翻訳研究者の目線からではあるが、翻訳がいかに難しく、また面白い問題であるかをお伝えしてきた(つもりである)。ことば、というのが十分深い問題であるというところ、それを別の言語で伝えるということがいかに深く、また広いか、そして創造的な営みであるか。本誌をご覧の方々であればそれぞれさまざまなお考えをお持ちのことであろう。ここでは筆者の私見を述べたい。

機械翻訳は大規模言語モデルの登場により過去最大の変革期を迎えたと言える。プロンプトでさまざまな制約条件を柔軟に追加できる上、形式上は長い入出力が扱え、文脈情報もある程度考慮されるようになったことから、文章をまるごと入力して機械翻訳することのハードルは大きく下がった。依然大規模言語モデル由来の課題は残るものの、今後も大規模言語モデルに基づく機械翻訳の利用は広がり続けるだろう。

一方で今後危惧されるのはことばの表現の平均化、あるいは画一化である。人が発することばの多様性は人の多様性でもあり、創造性にも繋がっている。大規模言語モデルをはじめとするいわゆる生成AIは基本的には与えられた条件下でもっともらしい結果を得るものであり、人間の創造する営みを支援する存在ではあるが、多様性や創造性を拡張し得る存在ではない。生成AIの便利さゆえに生成AIに依存した創作が増加すれば、それをまた生成AIが学習することで平均化や画一化が加速しかねない。便利なものは便利なものとして活用しつつも、独自の創造という「砦」は守られるべきものであろう。

では、ことばの多様性や創造性とは何であろうか。もちろん情報伝達のための記号としてのことばも書き手や話し手ごとにさまざまな違いがあるが、文字なら書き方、音声なら話し方もまた多様性や創造性の範疇であろう。そうした書き手や話し手の表出する記号以上の情報はコミュニケーションを豊かにし、同じ記号を基にしていても多様性や創造性が生まれる。しかしながら、機械翻訳では多くの場合ことばは計算機可読な記号として扱われ、書き方や話し方を積極的に反映させることはまだ主流とは言えない。書き手や話し手の意図を正しく伝達するためには、いわゆる字面の翻訳を超え、原言語と目的言語の知恵を総動員して適切なことばをひねり出す必要がある。近代における西洋の概念の輸入が新しいことばを生み出したように、ことばは静的なものでなく日々新しくなっていく。そうしたことばの営みを支えているのはことばの多様性や創造性、あるいは自由さと呼んでも良いかもしれない。その自由さは画一的なものへの収斂を是とすればたちまち失われてしまう。世界に存在する膨大な言語が徐々に喪われつつあることも無関係ではない。

大規模言語モデルは多言語を扱っているように見えて、言語の違いも含めた真の言語の多様性を扱いきれているのかは定かでない。大規模言語モデルが扱っているのは形を変えた Lingua Franca なのかもしれず、人のことばに影響を与え続けることは避けられないだろう。そうした中で我々のことばは呑み込まれてしまうのだろうか?あるいは引き続き自由に成長を続けていけるのだろうか?利便性一辺倒でなく、ことばの自由さを大切に守っていきたいものである。

巻頭言

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