長尾 真 初代AAMT会長を偲ぶ


長尾 真 初代AAMT会長を偲ぶ

隅田 英一郎 

一般社団法人アジア太平洋機械翻訳協会


AAMTの創設者の長尾真先生が、2021年5月23日永眠されました。心よりお悔やみ申し上げます。

先生は、コンピューターによる画像処理、機械翻訳、電子図書館等で大きな功績を残された「知の巨人」です。巨大組織運営で発揮された「豪快さ」、一人一人の個人への対応で発露された「優しさ」が印象的です。

長尾先生は1970年代半ばから本格的に機械翻訳の研究を開始され、パイオニアの一人として機械翻訳の研究開発の基盤を築かれました。当時、10年前に提出されたALPAC報告書で機械翻訳の将来性が否定された米国では研究が停滞していましたが、欧州や日本では研究が進んでいました。先生は1978年に「論文表題」の英日翻訳システム(TITRAN)を公開し研究・開発の大規模化に向けた狼煙を上げられました。1982年から4年間の国家プロジェクト1で「論文抄録」の日英機械翻訳システム(Mu)の開発を指揮し、さらに、富士通、東芝、NEC、等10社を越える日本企業の事業化競争を加速しました。この大きな盛り上がりを背景に、1987年に先生は世界中から様々な立場のステークホルダーを箱根に集め、機械翻訳について議論する第一回機械翻訳サミット(MT Summit)を主催しました。1991年にはInternational Association for Machine Translation (IAMT)を設立(IAMTの初代会長も長尾先生です。)し、IAMTの配下に、世界を3つ領域に分けて担当する姉妹団体AAMT、AMTA、EAMTを設立し、MT Summitを3団体で持ち回り開催することとしました。長尾先生は一気呵成に世界の機械翻訳を引っ張るキーパーソンとなられました。

TITRAN やMuをはじめとする当時公開された全ての機械翻訳システムで用いられた方式はルールに基づく翻訳(RBMT、Rule-Based Machine Translation)です。RBMTでは、原文を解析して単語や語順を変換し訳文を生成します。解析のルールと、単語の変換辞書と語順の変換ルールと、語形変化等の生成のルールを作成し、それを参照して翻訳するのです。

驚愕すべきことに、Mu が始まる1年前の1981年に、長尾先生は『RBMTと180度方向性が違う』方式、EBMT を発表されていました。先生は、1978年のTITRAN以降、RBMT方式のシステムを繰り返し試作する中で、ルールに内在する問題に気づかれてルールに捉われない方式が必要と考えられました。人間の外国語学習を観察して、対訳を記憶し類似対訳を模倣することをコンピューターにさせる方式、EBMTを提案されました。ルールは使わず対訳データを基盤とする「ノー・モア・ルールズ」の方式です。長尾先生は人工知能に関するワークショップで発表されましたが良い反応はなかったそうです。また、本論文を含む会議録2が出版されたのは1984年で、当時、世界はRBMTによる製品化の只中にあり、EBMTに注目し発展させる研究者もありませんでした。長尾先生の自伝『情報を読む力、学問する心』によれば、Mu開始前にいずれの方式を採用するべきかで「大いに迷った。」とあります。EBMTは優れたアイデアでしたが、研究に必要な対訳データや計算機性能が不十分だったので先生はMuにEBMTを採用されませんでした。早すぎたEBMTは環境変化を待つことになりました。

もう一つ驚愕すべきことがあります。長尾先生は、1990年代に入ると機械翻訳から次のテーマの電子図書館に軸足を移されました。先生は一つの研究テーマに長居はしないという方針をお持ちだったのです。あるテーマの基盤ができたら、そのテーマをやりつくすのでなく他の研究者や若い人に任せて、未開拓のテーマに挑戦することを大事になさったのです。実際、1990年代に入るとEBMTの研究も進みはじめ、同時に、「ノー・モア・ルールズ」の別方式であるIBM提案のSMTも登場しました。両者は切磋琢磨し精度向上を競いました。しかし、2010年ごろには両者とも頭打ちになってアルゴリズム的に行き詰まりました。この2010年ごろまでに「ノー・モア・ルールズ」の手法に好都合な環境整備は大きく進みました。①対訳データの大規模化、②計算機の高性能化、③自動評価の発明、④同じデータで複数アルゴリズムを評価するコンペの定着等です。このタイミングで、深層学習の高速実行を可能にするGPGPUが出現し画像認識で成功しました。次に、隣接分野である音声認識で成功しました。2014年に翻訳へ応用されました(この方式をNMTと呼びます)ところ、従前の手法ではいかんともしがたい天井と思われていた精度限界を越えました(第1世代)。天井に穴が開いた途端、研究者は雪崩のようにNMTに転向し一気に研究は加速し2017年には更に精度をあげました(第2世代)。NMTの勢いは衰えず2020年にも大幅な精度向上を実現しました(第3世代)。3年に一度、革新が起こり、システムが上市されています。研究から実用化への軽やかなこの展開は機械翻訳の長い歴史の中で誰も経験しなかったものです。第3世代では大規模対訳に基づく汎用のNMTと小規模高品質対訳に基づくEBMTが見事に融合しました。

長尾先生は目を見張る精度向上に満足され、英語が達者な長尾先生ですが、「英作文に役立つという理由で先生ご自身がNMTを活用されている」ことを、ニコニコと楽しそうに語っておられました。

東奔西走で活躍される元気なお姿を日頃拝見していたので喪失感は大きいです。しかし、『情報を読む力、学問する心』は我々の励みになる言葉に満ちていますし、先生の息遣いを感じることができますから、同書を手元に置けば、長尾先生は永遠です。

略歴

  • 1936年 三重県に誕生。
  • 1955年 大津東(現、膳所)高等学校卒業。
  • 1959年 京都大学工学部電子工学科卒業。
  • 1961年 同大工学研究科修了。
  • 1966年 工学博士(京都大学)。
  • 1973年 京都大学教授に就任。
  • 1978年 論文表題の英日翻訳システムを公開。
  • 1982年 科技庁より論文抄録の機械翻訳システム構築を受託。
  • 1987年 第1回MT Summitを主催。
  • 1991年 International Association for Machine Translation (IAMT)を設立。
  • 1994年 言語処理学会を設立し初代会長に就任。
  • 1997年 京都大学総長に就任。
  • 2004年 情報通信研究機構初代理事長に就任。
  • 2007年 国立国会図書館長に就任。
  • 2015年 国際高等研究所所長に就任。

受賞

  • 1993年 IEEE Emanuel R. Piore Award。
  • 1997年 紫綬褒章。
  • 2003年 ACL Lifetime Achievement Award。
  • 2005年 日本国際賞とフランス共和国レジオンドヌール勲章シュヴァリエ章。
  • 2018年 文化勲章。

注釈

[1] “The Japanese government project for machine translation,” in Computational Linguistics.

[2] “A framework of a mechanical translation between Japanese and English by analogy principle,” in Proc. of the Int’l NATO symp..

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